インテリ文学的「不安」

 こうしてインテリ文学的「不安」はケシ飛んだ。こんな不安は実は不安でなくて却って一つの安心であり、一つのポーズに過ぎなかったことに気がついたと同時にその時夫に代ってインテリを襲ったものは現実界の現実的な不安なのである。肉体保護上の不安、政治的不自由の不安等々なのだ。だが言うまでもなくこの社会的不安[#「社会的不安」に傍点]に襲われたのは、インテリに限る筈はなかったわけで、之が最も大規模に切実に襲ったものが、一般無産勤労者であるのは勿論だ。事実、テロルその他を最も恐れる権利のあるものが、彼等だからだ。――で例の事件は、もう少しでインテリ向きの観念で以てゴマ化し去られそうになっていた不安の権利を、大衆的に再び確立した。之で折角の不安もどうやら再び世に出るというものである。 世間の大衆は処が、実は之までに却って、或る一つの不安について断えず説法されていたものである。大衆は不安がるべきものを不安がらないと云って、彼等は鞭打たれた。世は非常時である、不安がらないような者は人でなしだ、と教えられた。――処が大衆は一向不安を身につまされて覚えない、否一向不安になりたがりもしないのである。不安に拍手することによって不安は事実増大しつつあったに拘らず、その不安が大衆の身につかなかったのである。云って見れば、いつも狼が来たと云って人をだました羊飼いは、本当に狼が来ても信用されない。まして本当に狼が来るか来ないかが、羊飼いの叫び声で決まるような時には、羊飼い自身の方が狼の様に警戒されるものだ。 つまり頑な大衆は、不安の説法が指さす処とは全く別な処に不安を感じていたわけで、この指し示す不安振りそのものが、他ならぬ彼等自身の不安の対象だったのだ。処でそこに事件である。と云うのは、この不安の指示的な身振りは、今度は身振りではなくて、現実の不安を彼等の身近かに醸し出した。観念的に、イデオロギッシュに、観念すべく教示された不安が、一見まるで別な方角に全く別な形態で、感覚的に経験されるということになったのである。夫が事件である。

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