二つの立場のいずれを採用するか

 二つの立場のいずれを採用するかは、だから少なくとも「為政者」の壇場に立つ限りに於ては、原則的にはどっちでもいいことであって、その確率は恐らく半々であるかも知れない。その確率とはつまり資本制を発展させ得る(即ち又させ得ない)確率のことだが。 して見ると、この二つの立場は、云わば強気と弱気とのようなもので、全くスペキュレーションの領域にぞくするものとなって来る。だから両方が真剣になって論議を闘わすことは、議会のような年中行事の儀式として以外に、あまり実質的な意義はないのだ。――だから又、二つの側の間にギャップを見つけたと云って、二つを対立させることによってこの社会の何かの矛盾を解き得るかのような望みを持つ者が、もし自由主義者というものだとすれば、その限り自由主義者ほど御し易いものはないと云わねばならぬ。資本と軍部との根本的対立ということ程ナンセンスな常識は又とあるまい。日本資本の運命について賭けるに際しては、蔵相側の弱気も、軍部側の強気も、同じ価値を有っていたのである。 但し之は「為政者」の壇場から見てそうだというのであって、被政者の立場からすれば、必ずしも二つの丁と半とが、同じ価値を有っているとは云うことが出来ない。同じ資本の発展のコースではあっても、大規模な道路をつくるのと、細かい間道を開くのとでは、民草の葉や茎や根の受ける動揺は非常に違うのである。だから自由主義者にも、一理あるとすれば、夫は彼がこの被政者の壇場に立った時に限るというわけである。――自由主義者に二種類あるということが之からでも判ると思うのである(この大道の工事も、この間道の工事も、遂に成功を齎すに至らないだろう点に就いては別に述べたいと思う)。[#地から1字上げ](一九三六)[#改ページ]

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