北支の独立自治ということ

 すでに北支の独立自治ということと、防共の必要との間には、著しく苦しいギャップがある。まして、北支三千万民衆に含まれる本来の農民の自治運動と、防共の必要との間には、説明すべからざる飛躍があるということを見ねばならぬ。無論北支の「自治政権」と農民の「自治」とは抑々甚だしくかけ離れたものだろう。だがこの二つを、粗雑に一緒にするとしても、夫と防共の使命とでは、木に竹をついだようなものだと云わねばならぬ。全く妙なことなのである。 だがああいうレッテルのことは実はどうでもいい。レッテルを信用するから、信用問題が起きるのであって、レッテルが中味通りに貼られていると決めてかかることは、正直過ぎるだろう。北支自治政権の独立は、元来農民の赤化防止の要求(?)というような閑問題とは全く関係がないのである。否、実は、華北大衆の安寧秩序そのものとさえ、原則上は関係がないのだ。無論恐らく事実上は之が北支の安寧秩序を確保することは或る限度まで必ず出来るであろうが、それは付帯的な結果であって、本当の目的でも何でもない。本来の意義は国民政府権力からの独立による満州国との、即ち日本との、「親善」の実現にこそなければならぬ。こういう日支親善(北に於ける部分的日支親善)――南に於ては又別な「親善」?――は、日本にとって、従って又満州国にとって、絶対的に必要だというわけなのである。そして日本人は、例によらず絶対的に必要なことを指して、「赤化防止」と呼ぶことにしている。これはここのところ単に呪文にすぎないのである。

 だが、日本と満州国とが、北支に対して感じるこの絶対的必要感、即ちその「赤化防止」感は云うまでもなく、北支の人民を塗炭の苦しみに陥れるものなどではない。否寧ろ、北支はこの日満側からする要求によって、日満側にその資源と企業地盤と市場と駐屯地と植民圏とを提供することによって、却って初めて開発されることになるのである。南京政府治下に於ては、こうした資本主義的開発は決して、これほど容易に、迅速には行くまい。 北支は北支の政権から独立する事によって、初めて、資本主義への方向をまっしぐらに追うことが出来るだろう。北支でも眼先の利いたブルジョアジーや財閥軍閥は、逸早くこの日満側の利潤に肖《あや》かるに相違ない。ライオンが縞馬を倒したあとには、必ずハイエナがわけ前にあずかるものだ。之によって初めて、日支は北支部分に於て部分的に親善を加え、言葉通り共存共栄の実を挙げ得ることになる。日本という先進国の眼の前で、資本主義化されねばならぬ支那、三民主義から始めて蒋介石主義を含む建前から見た支那は、決して一遍に、而も単独で、資本主義化すことは出来ぬ。この資本主義化は部分的に北方の隅から順次に着々とした節度を以て、日本の調教の下に、進められて行く。日支親善は、もはや希望でも言葉でもなくて、現実だ。

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