尊敬すべきプリテンション

 こういう尊敬すべきプリテンション、イデオロギー的自負を、強ち経済や趣味や口実や弁解とばかり見ることは出来ぬ。元来こうした現象には、そういう嘘と本当とのけじめはハッキリついていないので、当人達自身もその区別は判らないのだ。それは今日の多数の右翼団体の内実に少し当って見ればすぐ判る。そこでこういうプリンシプル(政党ならば党是という処)に基いて暴力団の各種の観念的な組織が出来上る、道徳や習慣が出来上る、そして夫が歴史にさえ伝承される。或いは仁義[#「仁義」に傍点]となり或いは何々「魂」となり或いは何々「精神」となる。営業的な狭義の所謂暴力団でも、又趣味上の不良与太でも、こうした仁義や魂や精神を自然的に持つようになることから、やがて一つのプリテンションが、プリンシプルが、生まれることが出来る。だから一般的に云って、プリテンション・プリンシプル・に基くことが、暴力団の最高の意味だと云うのである。 暴力団のこのプリテンション・プリンシプル・がどこまで本気で、どこから嘘なのか、当人達自身にも判らない位いだと云ったが、同じことは暴力団のもう一つの性質である反社会性に就いても云われるだろう。尤も反社会性などというと、ブルジョア社会学のブルジョア社会に対する忠勤振りを連想するかも知れないが、客観的に見て果して反社会的であるかないかは問題外として、今は当人達自身の意識に於て、反社会的な気持がどこまで本気なのか、自分でも判らないのである。旦那に捉って年貢を納めればスッカリ「社会」と妥協して転向(?)して了うのである。尤も之は乾児を大勢もった大強盗などの場合に局限されているというなら、社会性対反社会性の関係を、公的対私的の関係に直して考えれば、この関係は一般に広範な暴力団現象にあてはまるだろう。元来ギャングは多少とも反社会的と自覚する限り、社会的に私的な立場に立つものだが、処が社会的に公的な立場に立った何等かのグループでも、その公的な立場が実際問題として私的化されると、ギャングの資格を得て来る場合が少なくない。社会や国家の公的乃至半公的機関も、往々にして私的化された公的半公的機関として私的国策権力(?)に基く暴力団化することはいくらでも例のあることだ。そしてそのような場合、どこまでが公的なのかどこからが私的なのか、無論当人達自身にも一向見当がつかない。 広義の暴力団の著しい特色であるこの公私の不分明は、前に云ったプリテンション・プリンシプルの真摯さの不分明と直接のつながりがあるのである。プリテンションやプリンシプルを嘘にせよ本当にせよ看板に掲げる場合は、必ず之を社会的に公的なものとしてかかげるのである。そこに仁侠とか正義とか忠君愛国とかが叫ばれ、それから銘々の気質や仁義や「精神」が社会的な客観性を要求し出す。殊に何々精神の発揮や発露[#「何々精神の発揮や発露」に傍点]ほど、ギャング性を帯びたものはないのだ。

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